ヒデヨのジョムティェンビーチ便り

バンコクの南東150km、パタヤの南5kmに位置するJomtien Beachでロングステイしています

ロンドン交響楽団バンコク公演のレビューを和訳しました

6月7日にプリンスマヒドンホールで開催された、ロンドン交響楽団バンコク公演の模様を、鑑賞に同行してくれたチェコ人の友人トマスが、レビューにまとめてくれました。本人の同意を得て和訳したので、シェアします。長文です。

 

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LSO ロンドン交響楽団が、ショスタコーヴィチでバンコクを揺るがしました。

 

イタリア人指揮者ジャンアンドレア・ノセダ率いるロンドン交響楽団の鑑賞は、稀にみる喜びのひと時でした。ごくごく繊細な音さえも響き渡る、タイランド最高の音響効果を誇るプリンスマヒドンホールを会場としたのは、必然の取り合わせでした。


6月7日木曜の演目は、ドヴォルザーク真昼の魔女、アルメニア系イスラエル人の巨匠イェフィム・ブロンフマンのピアノ演奏によるフランツリストピアノ協奏曲2番、そしてショスタコーヴィチ交響曲10番でした。良質の会場と交響楽団の相乗効果で、歓喜の空気が全体に満ちていました。世界最高レベルの交響楽団を聴こうと、大勢の聴衆が集まり、最高額の席から最安値の席までがびっしりと埋まり、各曲目が終わるたびに万雷の拍手が送られました。

 

交響詩「真昼の魔女」は、チェコの詩人エベンが書いた4つの寓話のひとつを、題材にしています。ドヴォルザークが米国から母国へ帰省した1895年に、作られました。お行儀よくしてないと真昼の魔女に連れてかれちゃうぞ、と息子をたしなめる母親を描く、ボヘミア地方の寓話です。いたずらっ子のおふざけをオーボエで、恐怖の魔女の到来をバスクラリネットで描いて、巨匠ノセダはこの戒めの物語の演出を、際立たせました。テンポを正確に刻み、移り変わる拍子を滑らかにつないで、 リズムのわずかな変化をも、ノセダは表現していきました。


楽団は、ドヴォルザークの器楽編成法に精密さを持ち込みました。音の流れを、この交響詩の元となったエベンの詩の律動へと、緻密に置き換えていきました。導入部の家庭ののどかさ、足を引きずりながら歩く魔女、やがて息絶えた息子を目にした父親の悲嘆を、楽団は音の形にしていきました。

 

次の演目では、独奏用のピアノがステージ中央に運ばれました。
演奏は、ブロンフマンによるこの上もないリスト協奏曲の解釈でした。表現には、深さ、明晰さ、雄大さがあり、
何にもまして、ブロンフマンは熱情を持ち込みました。ノセダ指揮の下、楽団はブロンフマンと激情の対話を繰り広げました。演奏は、ビニールレコードに録音された1961年ロンドン交響楽団協演での、スヴヤトスラフ・リヒテルのデビューに匹敵する見事さでした。


出だしの力強さは、聴衆を興奮させるに十分でした。ブロンフマンのカリスマ的演奏のおかげで、遠くの席からの鑑賞であっても、満足感が得られました。彼の曲の叙述には、興奮と穏やかさが交差していました。
均整が取れてゆったりとした、息の長いアダージョソステヌートで、このイ長調の協奏曲を、ノセダは指揮し始めました。ブロンフマンは熱情的かつみずみずしい音調でで合流し、荒々しい低音へと音階を転じます。ピアノ独奏箇所は、ドビュッシーのような流麗さでした。協奏曲の要となる一貫した連続性については、リストが綴った6つの主題と変奏を、ひとつの長大な流れに上手くまとめていました。熟練師の腕前で旋律を躍らせ、ブロンフマンはリスト音楽が持つ幅広く豊かな音域を、披露していきました。演奏終了後は、聴衆が拍手喝采でブロンフマンを離しません。そこで巨匠は、プロコフィエフのソナタ7番の楽章演奏で、応えてくれました。

 

幕間の休憩後の曲目は、1953年のスターリン死去後に日の目を見た、ショスタコーヴィチのおそらく最も完成された最高傑作である、交響曲10番でした。ソビエト連邦の政治風紀の雪解けを反映したこの作品は、それまでの弾圧の振返りと、私的な悲運についての言及となっています。はじめのモデラートが主題となり、あとに続く交響曲全体の骨子となっています。かすかな囁きから雄々しい叫びへと、弓なりに楽章が高まりを見せ、そして再び静粛に締めくくられます。


最初の小節では、楽団のダブルベースが重々しく音を掘り下げ、作品全体へと浸み込ませせていき、一方で高音部の弦楽が、悲壮を際立たせます。金管の合唱に続き、フルート独奏が生き生きと踊り、そしてクラリネットが哀調を帯びた最初の主題を奏でます。その移り変わりには、目を見張ります。ショスタコーヴィチ作品では、しばしば悲しみは、奇怪さと隣り合わせです。打楽器群の連打により、主題の三回目で、第一楽章は最大の高まりを見せます。

 

ショスタコーヴィチの晩年に、ソロモンヴォルコフにより書き取られたとされ、真贋が問われている回顧録証言では、ヴォルコフはショスタコーヴィチがこの楽章を、残虐で無慈悲なスターリンの描写だと主張しています。もしこの音楽がスターリン自身の具現化でなかったなら、それは彼が決別した過去の怒りを表します。少なくとも50以上のクレッシェンドとわずか2つのデクレッシェンドで、より粗野に声高に勢いを増し、流れが加速していきます。

 

第3楽章アレグレットでは、この作曲家の名前に入っている4つの文字からとった音調で、風刺的で恐怖を覚えさせるワルツへと回帰しました。ショスタコーヴィチが挑発的な物腰を示俊する際に使うD, Eフラット、 C 、 Bで、ドイツ語表記ではDSCHとなります。1943年ショスタコーヴィチ交響曲8番、1943年頭のバイオリン協奏曲、後年の1960年弦楽四重奏8番では、顕著にこのモチーフが見受けられます。
しかし交響曲10番に現れる、この作曲家の特質は、コード進行だけではありません。エルミラ・ナシロヴァへの愛情も入っています。仏語と独語での表記を組み合わせて、E La Mi Re Aの音符をはっきりと、ホルンが12回も綴ります。これら2つの主題が変奏され、激しさを増し、やがて調和していきます。

 

第4楽章は、アンダンテで始まりました。低音弦楽のモデラートがこだまして、しかしこの楽章では、鬱屈さと温かさを、同時に兼ね備えています。弦楽のつぶやきから、オーボエが奏でる最初の美しく詩的な主題となり、次いでフルートへと引き継がれます。クラリネットがゆっくりとメロティーを展開し、悲劇と慰めを調和させる様に、私は心を動かされました。対照的に、次のアレグロでは熱意を膨張させ、すぐに木管楽器が甲高い嘲りでその勢いを萎えさせました。これは、ショスタコーヴィチが彼の交響曲中で、皮肉と不信をほのめかすのに、しばしば使われる手法です。操り人形の従順さと反逆心が併存する困難さを偽って、取り繕った歓喜を、指揮者ノセダは浮き立たせました。

 

交響曲のヤマ場では、アレグレットの密やかな協和音から、全てを巻き込む恍惚へと楽曲は展開し、耳をつんざくような大音量でトランペットとトロンボーンが「我はDSCH」と歌い上げました。純粋な歓喜が響き渡りました。虐げられた作曲家はついに暴君に勝利し、ノセダはこの交響曲を喜びに満ちた結末で締めくくり、すべての激しい興奮が終わりました。ショスタコーヴィチは、確かにここに居ました。

 

 

トマス・バジカ記


2018年6月7日 バンコクにて

 

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参照:タイチケットマスターThai Ticket Master でのコンサート情報

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関連投稿追記: 2018年11月9日に開催されたベルリン交響楽団バンコク公演の模様はコチラ

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